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美代姫 (徳川宗堯正室) : ウィキペディア日本語版
美代姫 (徳川宗堯正室)[みよひめ]
美代姫(みよひめ、宝永5年2月1日1708年3月22日) - 延享3年5月18日1746年7月6日))は、水戸藩第4代藩主徳川宗堯の正室。第3代藩主徳川綱條の嗣子徳川吉孚の娘。母は第5代将軍徳川綱吉の養女・八重姫。水戸藩5代藩主徳川宗翰の母。院号は初め長松院、のち泰受院。諡号は純懿夫人
== 経歴 ==
宝永5年(1708年)、水戸藩嗣子の徳川吉孚と正室八重姫の第一子として生まれる。八重姫は将軍綱吉の養女であるため、幕府からも賀使が遣わされた〔「徳川実紀」〕。翌宝永6年(1709年)10月、父・吉孚が早世し、美代姫は吉孚の唯一の遺児となった。吉孚の兄弟は全員が成人前に早世しており、藩主綱條のただ一人の直系である美代姫が次代藩主の正室となることが決められた。2年後、正徳元年(1711年)11月、支藩高松藩より軽麻呂改め鶴千代(後の宗堯、7歳)が綱條の養嗣子として迎えられ、享保3年(1718年)の綱條の死去により、宗堯が4代藩主となった。
享保8年(1723年)11月21日、16歳となった美代姫は、駒込邸(中屋敷)から小石川邸(上屋敷)に入輿、宗堯の正室となった〔「水戸紀年」〕。なお、宗堯と美代姫は、系図上は叔父と姪、血縁上は又いとこにあたる。
享保13年(1728年)美代姫は、宗堯の次男・鶴千代(後の宗翰)を産む。正室の所生であることから、次男ながら鶴千代が嫡子となった。しかし、2年後の享保15年(1730年)4月に宗堯が26歳で死去し、わずか3歳の鶴千代が5代藩主となった。美代姫は落飾し、長松院(のち泰受院)と号した。
綱條の子が全て早世し、宗堯が養子であったため、この時の水戸家では、3歳の鶴千代と4歳の庶兄軽麻呂(松平頼順)の2人の男児しかいない状態となった。5月24日、美代姫と本清院(3代藩主綱條の正室)は、諸臣に対し幼い藩主を補佐するよう訓命を下した。江戸時代の大名夫人が公的に家臣に命を下すのは、異例のことである。享保19年(1734年)1月23日、母・養仙院とともに7歳の鶴千代を連れて江戸城に登り、大奥にて将軍吉宗と鶴千代を初めて対面させ、玩具等を賜った。
享保21年(1736年)鶴千代は元服して宗翰となり、寛保3年(1743年)には一条兼香の娘千代姫(絢君、郁子)と婚礼した。
延享3年(1746年)5月18日死去。享年39。墓所は瑞龍山

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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